2013年4月25日木曜日

裏返されたキャンバス(辻井 潤一 書評)



 いま読んでいるのは、果たして〈小説〉なのだろうか。本書を読みながら持ち続けた疑問である。
 本書は、バスク語の小説家である著者と同名の主人公、キルメン・ウリベが、自作の小説を、より正確に言えば本書を書くためのプロセスそのものを描いた小説である。講演のため、バスク地方の中心都市ビルバオからニューヨークへと向かう旅路の描写と、小説のために集められたエピソードとの交錯が、詩的な文体によって綴られていく。郷里の画家の失われた壁画、祖父の漁船の名前の由来、漁師として生きた父や叔父たちの言葉、スペイン内戦が残した悲劇の数々。随所に差し挟まれる記憶や逸話の多くは、おそらく主人公=著者であるウリベが見聞きした実話だと思われる。とりとめもないイメージの連続と、断定することなくためらい続けるような書きぶりによって、読み進めていくうちに、現実とフィクションの境界は曖昧になっていく。そしてウリベは、本書の中で次のように幾度となく繰り返す。「本当であろうが嘘であろうが、一番大事なのは物語そのものなのだから。」(P66

 通常、私たちは小説を読むとき、フィクションであることを暗黙的に了承した上で、現実とのズレを無意識のうちに埋め合わせながら、小説世界に没入する。それは絵画を観る作法に似ている。所詮はキャンバス上の単なる絵具の集積にもかかわらず、観者はそこに描かれた世界や事物を読み解こうとする。この小説と絵画のフィクションであるがゆえの通底に、ウリベは自覚的だったはずだ。その証拠に、本書の中で、ある一枚の絵画に言及している。ディエゴ・ベラスケスの《ラス・メニーナス》である。(P152)宮廷画家だったベラスケスが描いたのは、キャンバスの前で国王夫妻の肖像画を描く自身と、その光景を見つめる王女とお付きの女官たちがいる室内風景。肖像画のキャンバスは、その裏側しか描かれていない。観者は、絵画の中にさらけ出された道具立てのみで、国王夫妻の肖像画を感じ取るしかない。
 ウリベも本書において、小説のためのあらゆるイメージを、現実とフィクションの分け隔てをしないまま、提示している。不意によみがえる記憶、語り継がれてきた逸話、そして家族への想い。読者は、それらのイメージのゆるやかな連関の中に身を委ね、たゆたい、未だ見ぬ小説に想いを馳せればいい。それこそが、この〈小説〉を読むことなのである。

(キルメン・ウリベ『ビルバオ−ニューヨーク−ビルバオ』金子奈美訳、白水社、2012年)

2013年1月12日土曜日

さらば、ぷしゅぷしゅ(大洞 敦史 作文)


 ぼくの鼻の穴には今、プラスチックのチューブが埋め込まれている。ここは台湾南部の町、台南の病院のベッドの上。今朝方ぼくはここで「薬剤性肥厚性鼻炎」の治療手術を受けた。この持病とはもう七年のつきあいになる。点鼻薬、と呼ばれるスプレー式の薬品をご存じだろうか。鼻がつまっているとき両の鼻腔にぷしゅ、ぷしゅと噴射すると、五分も経たないうちに楽に息ができるようになる魔法のような液体だ。名古屋で暮らしていた七年前、製薬会社につとめている十三歳年上の恋人が風邪に苦しむ様子を見かねてすすめてくれて以来、今日まで一日としてこれを使わずに過ごした日はない。
 液体に含まれている塩酸ナファゾリンという成分は鼻腔内の血管を収縮させる作用があり、また即効性がある。五分とまたずに鼻が開通する魔法の、これがタネだ。ところが効き目が切れると、収縮した血管は以前よりも太くなる。そのぶん粘膜は肥大化し、息がしづらくなる。効果の持続時間も短くなる。使いはじめた当初は一度の噴射で半日ほどすがすがしい呼吸を楽しめていた。やがて噴射の間隔は四時間、三時間、二時間とせばまっていった。
 ノズルの先端を鼻に挿してぷしゅ、もう片方でまたぷしゅ、とやるのは、かっこいい姿ではない。人前でつかうのは極力さけてきた。誰かと話している時などは、相手がふと脇を向いた隙に西部劇のガンマンよろしくズボンの右ポケットに忍ばせてあるそれを抜きとりぷしゅぷしゅと撃ち放ってただちにまたポケットに収めるのだった。まれに急にこちらを向いた相手に目撃されることがあり、そのときはむしろ相手のほうにバツがわるい思いをさせてしまうようだった。
 噴射のさいに音が出る関係で、困るのはコンサート会場や試験会場などにいるときだ。前者は拍手のタイミングにあわせればなんとかなる。後者はポケットから物をとりだす行為自体がおちおちできないので、直前に二、三回分まとめて注入しておくほか、錠剤タイプの鼻炎薬を服用してから試験にのぞむのがつねだった。それでも途中で効き目が切れてくれば、半開きの口で精一杯酸素をとりこみつつ、生あくびを連発しつつ、ぼやけた頭で懸命に問題にとりくむしかない。
 過去にも病院へ行ったことがある。そのとき医者から提案された手術の方法とは、鼻の穴の間の骨を根こそぎ切除するという荒っぽいもので、その後は左右の穴がつながった状態になるという。それを聞いて怖じ気づき、治療をもっぱら先延ばしにしてきた。
 意識朦朧としたぼくの横たわるベッドの脇で本を読んでいたZさんが時計を見て立ち上がり、鼻元にあてられている赤く染まったガーゼと眉間の氷嚢を新しいものに代えてくれた。彼女はぼくの日本語の生徒で、この病院の耳鼻科につとめている。二人の子供を女手ひとつで育てながら、毎朝五時に起きて日本語を勉強し、ぼくの生徒十数人のなかで最も流暢に日本語をあやつる彼女のおかげで、今回の治療はまったく順調にここまで来た。
 唯一の不運は手術のさい局部麻酔があまり効かなかったことで、ドリルを歯の神経にとどくほど深々と突っこまれたり、かなづちとメスで鼻骨を削りとられたりしているかのような感触が一時間ばかりつづき、まさに阿鼻叫喚だったが、幸いにして今、鼻の内側にはまだ骨がある。
 隣のベッドで豪快ないびきをかいているのは農村地域に暮らす兵役を終えたばかりの青年で、前日に鼻の手術を受けたという。ぼくも目をつむり、彼の母親とZさんのおしゃべりと、テレビの「釣魚台」をめぐる討論と、隣人の苦しげないびきを半開きの口で感じとりながら、かつて点鼻薬をぼくにすすめてくれた、やはりいびきをかく癖のあった彼女のことを思い出していた。人混みや壁のないところにいると不意に呼吸が激しく乱れることがある彼女とぼくは、名古屋駅構内の混雑した中央通りを端から端へわたるとき、いつも壁ぎわに寄り、固く手を結んで、ゆっくり、そろそろと歩いていった。
 大学院の入学にあわせて故郷でもある東京に戻ってから、ふたたび駆け足で路上を移動するようになり、九八キロあった体重は七五キロにまで下がった。台湾に来てからは日々バイクを車でふさがった道を縫うように走らせて生徒の家に通い日本語のレッスンをしている。ワーキングホリデーのビザが切れるまでにはフルタイムの教師の職を見つけるつもりだ。そのときに生徒たちの前でぷしゅぷしゅとやるわけにはいかない、という思いが手術を決心したことの動機になっている。
 数日後チューブが抜けたらきっと鼻が通り、点鼻薬ともおさらばし、ぐっとさわやかに外を走れるようになるだろう。だが今夜はぼくもいびきをかくのだろう、隣の彼のように、彼女のように。トイレへ行きたくなったぼくはZさんの助けをかりて身をおこし点滴をもちあげ、ゆっくり、そろそろと足を踏み出した。

2012年12月8日土曜日

子どもたちのための<料理>を作ろう(作文)


 切れ味の悪い果物ナイフで梨の皮を剥いていたら、油断をしていたからか、手を滑らせて指先に、刃先が触れてしまった。気にしないで、刃先を梨の、河原の石のようにザラザラした表面に当てて、しばらく黙って皮剥きに集中しようとした。てきぱきと切り分け、はやくこのみずみずしい梨を食べてもらいたいと気持ちは急いていて、この子は見かけによらず不器用だとか、女房はこんなきたない切り方をしなかっただとか、そういうことで残念に思われたくない気持ちが高ぶるほど、手に固定された梨のがたついた表面が目について、情けなくなってくる。追い打ちをかけるように、切れ味の悪いカッターのような果物ナイフの当たった指先から血が滲み始めているのに気がつき、「まだかい」と部屋の奥から尋ねる声に、もう少しです、と答えると血はそれに応えるかのように勢いを増して止まる気配がなく、とにかく梨を避難させたいのに、洗面所のような小さなシンクには、梨ひとつを安定して置いておけるスペースもなければ程よい容れ物もなく、切り口を抑えながらあたふたするしか方法がない。
 絆創膏など持ち合わせているはずのない状況で、血まみれのシンクでどうやって梨を切り分け、それを葡萄のとなりに並べたのか記憶にない。けれど次の場面では、何事もなかったかのように種田さんと向き合っていて、ぎこちない梨を葡萄が補ってくれることだけを念じながら、罪滅ぼしのように梨を口に放り込んでは一週間の出来事について話している。平日の正午。部屋には介助用ベッドと業務用の机、書類整理用の引き出しと小さな洋服ダンスがあるきりで、それでも来るたびに棚に並んだ本の背表紙が変わっていたり、どこからか送られてきた茶封筒が卓上に乗せられていたりする。隣の部屋に、少し前まで奥さんが住んでいた、と言う。奥さんの写真は壁に立てかけてあって、種田さんはそれを便宜上置いているとでもいうように、たまに指さしては「家内が」と話を続ける。壁にはほかに、二枚の賞状が額縁入りで引っ掛けてある。一枚は総理大臣(福田康夫)からで、もう一枚は施設から。どちらも大喜びで解説を始め、厳粛な顔をした親戚たちが、お祝いに種田さんを囲った集合写真を一緒に見せられて、応答に窮する。
 目次となる年表を書き取りながら、ずいぶん色んなことに手を出した人なのだということが明らかになっていく。自伝の執筆を手伝うのは二人目で、前回は七九歳、今回は一〇一歳だから、さらに一世代分遡ることになる。そして彼は、致命的に耳が遠い。ピンと立った小さな耳に、くすんだ肌色の、重たそうな補聴機を取り付けて、いつもの作業が始まる。始終、補聴機から耳鳴りのような甲高い音が聴こえてきて、無音の部屋によく響く。その、骨にまで響くような音抜きには、会話が成り立たない。種田さんが喋るときでさえ、人工的な巻貝のようなそれは、種田さん自身の声を聞き取りやすい周波数の電子音に変換し、白い耳の内側に向けて、ギャンギャンと響いている。「GHQの占領に際して私」は、「実はダットサンに先立って私」と「家内と世界中を私」に周期的に現れ、それを声の速度で筆記すれば「東北大学に招かれた私」に辿り着く。何度でも。一つの場面の「私」の切れ目なさはそのまま何度でも反復できるレコードのように深く刻まれていて、一度針を落とせば自動的に再生が始まる。少し遅れて電子の声がギャンギャンと追う。さらにずれ込むかたちで筆記ペンが紙の上を滑る。いくらかまとまった後でそれに目を通すと、梨をひとかけずつ食べて、次のページへ進む。
 耳で聴いて一字一句書き取ることにへとへとになって、二重の声の呪縛から放たれて温かいご飯が食べたいと、萎びていく果物を横目に考え始めたとき、一体これは誰のために話され、書き留められているのだろう、という疑問が降ってきた。七九歳の高縄さんの手伝いをしていた時は事情が違った。雇われた目的がはっきりしていて、つまり出版物にするための文章の校閲を任されていたから、声を写し取る必要などなく、キーボードで入力された文章の断片を繋げて、説明の足りない表現を付け加えたり、重複する場面を削ったりすれば済んだ。ところが今回は何か違うことが求められている。編集どころか、筆記ペンを握りしめ、耳を極度に緊張させて、ただ書きとっている。これでは創意工夫もしようがなく、しかも種田さんの中に眠っている記憶がどこまで記録されれば気が済むのか、見当がつかない。途方もない再生、途方もない筆記。
 ある日、いつものように部屋を訪れると、種田さんの姿がなかった。特にすることもないので、奥さんの写真(夫婦でローマに行った時の写真で、奥さんの顔だけをクローズアップして額縁にいれたもの。気さくそうな笑顔)を見ながら待った。不意に眠気に襲われて、机に突っ伏して眠ってしまう。やがて、戸口から入ってきた種田さんに起こされ私は、そのあと、これまでの記録を朗読しよう。

2012年10月20日土曜日

海の美しい<浜辺>に(大塚 あすか 作文)


 朝露で濡れた下草を踏み、たどり着いた展望台から身を乗り出すと、遥か峰々の間にうっすら漂う雲の波が見えた。六月の夜明けは早く、登りきった陽の下で見る雲海は、爽やかではあるものの幻想的とは言いがたい。今朝の雲海はコンディションがいまいちで、海と言っても遠目に浅瀬を眺める程度。それでも隣に立つ両親は嬉しそうな表情を見せ、その姿に、旅程を組んだ姉もほっとしているようだった。

 父の退職祝いにと企画をはじめた家族旅行は、紆余曲折の末、一年遅れで初夏の北海道行きに落ち着いた。両親と姉とわたし、このメンバーで旅行をしたことは過去に数度もない。父は仕事柄土日や盆正月に休めず、昼夜を問わず呼び出されるどころか、勤務地外に出ることにすら届出が必要だった。わたしは十八を過ぎて旅を学び、それは誰かと分かち合うためのものではなく、ひとり気ままに動き回るためのものとして確立した。
 子どもたちが独立してはじめて、家族旅行の思い出がぽっかり欠けていることが気になりはじめたのか、両親はときおり後悔の言葉を口にした。父は今や自由の身となり、旅を妨げるものはない。

 前日は、トラブルにより予定が遅れ、ホテルへ向かう道中で日が暮れた。それどころか、信用ならないカーナビに導かれ迷い込んだのは、けもの道としか思えない、車一台通るのがせいぜいの山道。携帯電話の電波が途切れる頃には車内は沈黙と緊張に包まれ、激しい揺れの勢いで車が崖から落ちては大変だとばかり、レンタカーのハンドルを握る姉の手には血管が浮いた。
 そんなこんなで、ようやく舗装された道路に出て、黒々とした山の狭間に、バブルの遺跡と呼ぶにふさわしいツインタワーが目に入ったときも、場違いな毒々しさへの驚きより安堵が勝るほどだった。冒険譚を訴えるわたしに、ポーターの若者は、「僕は地元の人間ですけど、あの道は一度しか通ったことありません。熊も出ますから」と言った。
 それもこれも、このリゾートホテルの売りである雲海見物のためだった。わたしたちにとって雲海は特別なものだ。誰もあえてそれを口にはしないけれど。

 出産予定日を一ヶ月過ぎていた上に逆子だった姉は、分娩時のトラブルにより視神経に傷を負った。遠視用の分厚い眼鏡は、子どもたちのからかいの対象としては申し分のないもので、長い間、本人と両親を苦しめた。
 姉は小学校卒業までに二度の手術を受けた。地元に適当な病院がなかったのか、県境を越え熊本大学の付属病院にかかっており、完治するまで長期にわたって、三ヶ月に一度の定期検査のため熊本へ通い続けることを余儀なくされた。
 その日だけは父も仕事を休み、県外への外出許可を取った。大学病院の待ち時間は恐ろしく長く、朝一番に受付してもらうためには真夜中に家を出る必要があった。今のようにコンビニエンスストアがあったわけではないので、母は通院の前夜、ほとんど眠らず弁当を作った。
 真っ暗なうちにたたき起こされ、寝間着のまま毛布に包まれた姉とわたしは後部座席に詰め込まれる。窓越しの星空に見とれるものの、車が動き出して間もなくまた意識を失う。ひとしきり眠った後で目を覚ますのが、決まって阿蘇に差しかかる頃だった。カルデラ地形のせいもあるのか、阿蘇の雲海はそれは見事だった。朝焼けを飲み茜とも紫ともつかない複雑な色合いをした波が足下まで打ち寄せてくる、まさしく海だった。
 でも、もしかしたら阿蘇のことは、記憶の中でいくらか美化しているかもしれない。幼い姉やわたしにとって、若い両親にとって、それは唯一といっていい家族で遠出する機会だった。宿泊も観光も伴わないけれど、特別な日だった。

 あの涙ぐましい通院の日々、両親はいったい幾つだっただろう。そう、多分、二十代半ばから三十代にかけて。
 姉とわたしは、すでに当時の両親の年齢を超えた。叱られてばかりだった子どもが、今では逆に「現代の常識」を親に説く。親子の立ち位置は少しずつ確実に変わりつつあると同時に、それに対する違和感もある。独身である姉とわたしは、「じいじ、ばあば」という言葉に変化を委ねることも叶わない。
 還暦前後の両親、三十代半ばの姉とわたし。家族での旅行はどこかぎこちない。両親は、過去に実現しなかった家族旅行を取り戻そうとしている。姉とわたしは、新しい家庭を作るという、おそらく両親が密かに抱いているであろう期待に添えずにいることへの後ろめたさを抱え、その罪滅ぼしの意図を持つ。いわば、欠けているものを埋めるための旅。

「阿蘇の方がすごいよね」と、占冠の山々を眺めながら口に出してみた。少なくとも、今目の前にある光景と比較可能な記憶を共有している。それが、様々な思いを打ち消し、家族をつなぐための糸であるような気がした。
「そうだよね」
 同意の言葉とともに、父が、母が、姉が、その細い糸を掴むかのように思い出を語りはじめる。

2012年8月18日土曜日

いつか<虹>色にそまる(原 瑠美 作文)


思わず笑ってしまった。
「原さん、虹の根元にはねえ、おっさんが七人ずつ立って照らしてるんだよ。ライトで。」
 そういったのは出張で岐阜に行ったときに同行した担当者で、私たちは仕事が終わってオフィスに戻る車が山道にさしかかったときに、夕空におおきな弧を描く虹(しかもダブルレインボー!)を見たのだった。その年は寒さがなかなか来なくて、京都に紅葉を見に行ったのにまだ青々としていたなんて話をよくきいたが、岐阜の山中では十一月も下旬となるとさすがに木々は美しく色づいていた。ゆるやかな下り坂の道の先は、重なりあって伸びた黄色い葉に隠れて見えない。こっちの山からあっちの山へ、橋を渡すようにくっきりとかかった虹の下を車はくぐっていった。
 「岐阜の伝説だよ。」おちゃめな担当者がそういうので、私はまた笑いながら外の景色に目をうばわれていた。
 それまでは虹というのは雲から雲へとかかるもので、雲が手の平のように上下左右に移動するにつれていろいろな形の虹ができると勝手になんとなく想像していた。もちろんそんなはずはないのだが、私は自分のいんちきセオリー以上のものをこれまで求めたことはなく、虹について深く考えてみたこともなかった。しかし夕立のあとの晴れ上がった空に浮かぶそれを見ていると、たしかに「根元」がどうなっているのか気になってくる。岐阜の虹おじさんたちはそれぞれ手に色のついたライトを持って、定位置に立っているらしい。虹は左右のライトから照らされ、対応する色どうしの光線が空中でくっつく。正確さを要求される、たいへんな作業だ。
 絵本作家のデビッド・マッキーも、虹の根っこに注目している。『エルマーとにじ』では不思議な白い虹が現れ、ほかの動物たちがこわがるなか、パッチワークのカラフルな象のエルマーだけが勇敢にも虹の根元を探しにいく。色をなくした虹に自分の色を分けてあげようというのだ。ついに見つけた虹の端にエルマーは近づいていくが、そこでなにが起こっているかは描かれない。想像力がかきたてられるシーンだ。
 虹の両端に思いを馳せることは、その一方を頭、もう片方を尾ととらえる感覚にも容易につながっていくが、世界には虹をヘビだと考える文化もあるらしい。とくに有名なのがオーストラリアのレインボー・サーパント、虹ヘビだ。アボリジニの言い伝えによるとこの虹ヘビがなにもなかったところから世界を創り、地下で眠っていた生きものを地上に連れてきたのだという。まったいらだった大地に虹ヘビが頭を打ちつけると土がえぐられた場所が池になり、盛りあがった土は山になり、するすると細長い体が通った跡は川になった。日本でも古来ヘビは水の神として祀られることがおおく、ヤマタノオロチなどの大蛇伝説もあるが、大地の凹凸や水の流れを見てその由来を空に見出した人々の目とそこから語り継がれる物語は新鮮なおどろきをくれる。
 それぞれなんの歴史的、地理的関連もなく、最初のものなんて突拍子もない発想でしかない虹伝説だが、こうして並べてみると糸のようにつながっていく感じがしておもしろい。まったく異なるようで境界線がどこにあるのかよくわからない色の集合体である虹の性質が、脈略のない遊び心を刺激してくれるのだろうか。
 最後に虹を見たのはいつだったか、思い出せない。しかし印象的な虹の記憶は時間軸を無視してぽんぽんと頭に浮かんでくる。ホノルルで、海に背を向けて山のレストランへと向かうバスから見た虹。屋久島で、これまたバスの窓から運転手に指差されて見た海に浮かぶ虹。ダブルレインボーにおかしいほど感動している男が撮影した動画がYouTubeにアップされていて、友達が送ってくれたそのURLをクリックしてパソコンの画面で見た虹、虹の映像。ちいさいころ、はじめて見た虹(「はじめて」の記憶は思い出すときによって変わるくらいあいまいでいて、強烈でもある)。おおきくなって新しい国に住みはじめて、そこではじめて見た虹。
 ふと見上げて虹が見えたら「あっ」といってしまう。思わず笑顔が広がるのを感じるのは、私のなかにも虹伝説の種がころがっているからだろうか。そこからいつか芽が出るとすれば、独立した色ではなく、色と色のあいだの微妙な調子を持ったものになればいいと思う。世界中の伝説とつながれるように。
 夏前に買って愛用している半ズボンについているベルトをキュッと締める。暗いモスグリーンの生地に、虹色のベルトがよく映える。その端にはおじさんも象もいない。いまのところ。

海の美しい<浜辺>に(作文)


ああ海が見たいんだ、と気づく瞬間の妙にしっくりくる感じ。どうして、と次に問う声もすっかり呑みほしてくれるから、わたしはどうしても海が見たい。面倒な説明を一番向こう側へと追いやって、足はもう、潮のにおいのする方へと、ひと足先に向かっている。
 一年のはじまり、一月の終わり。卒業論文の提出締切を目前に、溜め込んだ言葉で消化不良を起こし、同じく白い顔を木枯らしにさらしてげっそりしていた友人Nと、江の島へ向かった。冬に江の島へ行くのは初めてだった。特に目的はなかったので、おいしい鯖でも食べにいこう、とだけしめし合せて、江の島行の切符を買った。書くことに行き詰って思いつめていたからか、普段は過剰に上乗せされる海への期待を準備する間もなく駅に降り立ち、ごく自然に道路の向こう側に海の気配を感じながら、横断歩道の手前で、信号が青く切り替わるのを気長に待っていた。
 幅の広い道路は片瀬海岸に沿って湾曲しながら一本、気持ちよさそうに、けれども少し気だるげに伸びている。そこへ、駅の方から続く中道がT字に交わり、その一画にある店先には生しらす丼、地魚のなめろう汁、鮪ほほ肉の竜田揚げと、読みあげたくなるような文字が躍る。ちょうどお昼を過ぎたころで、店の奥からは調理場の熱気が絶えず漏れ出してくるようだった。となりで信号待ちをしていた恋人同士が、気がつけば店の暖簾をくぐっている。道路の向こう側には、海の気配。少し前に、コンクリートの塀より上にチラとその一部を見たような気もしたし、高いところからすっと伸びている空の濃く垂れこめた部分を海と勘違いして、ほんとうはまだ海を目にしていないのかもしれなかったが、どっちでも構わなかった。とにかく、海は近い。経験から確信するのではなかった。初めて会う人のように新鮮で、しかも昔から隣にいたかのように親しげな、内側からどうしようもなく疼いてくる感じが、近づいてくる海との距離を、精確に伝えていた。いつかのあの感じを取り出してきて、全身でその場にそれを感じる、それを見る、それを嗅ぐ。海はいつも、そうやってわたしを別の場所へと密かに繋げた。
 
アントワープ。もうひとつの海岸線。信号待ちをしていると、広い道路に観光客むけの馬車が現れた。自動車を軽々と見下ろす白毛と栗毛の大きな馬が二頭、舗装された硬い道を鳴らしながら闊歩する。動物と機械が、道路の上で横並びになる。
三日前の夜にブリュッセルに着き、予約しておいた安ホステルが見つからず、重たい鞄を背負って夜中の二時過ぎまで見知らぬ街をさ迷い歩き、何とかして見つけ出した別のホステルに、二夜分のベッドの確約をとった。アントワープを訪ねた日、すでにブリュッセルに帰る場所はなく、駅に荷物を預けて、夜中にイギリスへと出航する船に乗ることになっていた。
広場と広場を繋げる迷路のようなブリュッセルの街並みにくらべ、アントワープでは方角が明らかだった。駅から港の方まで、道はほぼ例外なく縦と横に走る。港に歩を進めるごとに、街はころころと表情を変えて脈絡がない。アントウェルペン中央駅から、人気のないコンクリートの道路。そこへダイヤモンドの商店が立ち並ぶ通りが何の気もなく現れ、ほとんどシャッターの閉じられた店先には(いつか見たギャング映画に映し出されたいかがわしいダイヤモンド街の活気は見られなかった。休日にダイヤは売らないのか)小声で立ち話をする男たちが点々としている。すると今度は道が大きくひらけて、手足の細い女の子たちが腕にショッピングバックをぶら提げ、街を鮮やかにかき回す。ところが大通りから気まぐれに小道へと逸れると、一変して色調は下がり、着工してどれほどの月日を経たのかもあやしい建設現場が、グレーのシートに覆われて黙っている。何も被っていない建物も、色形が疎らなレンガとガラスの重なりで、風の抜けない場所にあっては風化も出来まいと、同じくじっと身じろぎもせずに、何かを待っているようだった。
横切ってゆく馬車を見送り、道路の向こう側へと踏み出す。横に広く走る道路は、馴染みのものを予告していた。日が、港の方にぐんぐんと傾いていく。古い建物は日陰からぬっと顔を出し、然るべく風化の作用を受けて、赤茶けた砂の城に似た。馬車も建物も大きくて立派だった。立派であればあるほど、地面から少しだけ浮いたおもちゃのように、どこかはぐれてしまったような印象を与えた。

繰り返し打ち寄せる波音が耳の鼓膜を支配して、繰り返し訪れる記憶の断片をばらばらの場所に置き続ける。あの時とは、どの時だったのか、足の下に、砂浜はあったのか、なかったのか、道路が繋いでいたのは、どことどこだったのか。行き着くことが帰ることにぴったりと寄り添う時、人はやすらかに顔がない。そうして顔をなくしたのっぺらぼうが、気がつけば店の暖簾をくぐっていて、おいしい鯖を頬張っている。

平成生まれの昭和(作文)


 平成という元号が始まってちょうど一年が経った頃に、わたしは生まれた。一九九〇年。世の中はバブル絶頂期にして末期。「バブル」という言葉を知ったのはそれから随分あとのことだし、「バブル」という現象を理解するのに、とても二十年では足りなかった。だから今でもその言葉から先には、何の連想も生まれない。
バブルとその崩壊の境目で、わたしの三つ子の魂は形成された。そのままうつうつと眠り込んでいくのか、それともこれから目覚めていくのか、どちらともつかないぼんやりとした時間の中を、特別に好きなことも、特別に嫌いなことも自覚しないまま、ただ漂っていた。いま、そんないわゆる少女期のようなものを、当時の感覚で手繰り寄せようとすると、うまく輪郭がつかめない。シルエットは嵐のまえの雲行きを真似て、気まぐれに記憶をにじませるだけ。《極度の引っ込み思案だったわたしは》という出だしで、その時期を語ることも出来るし、《生来の目立ちたがり屋だったわたしは》という切り口で同じ時期の自分を語ることも、不思議なことに、出来てしまう。それが「平成」というキャラクターにまみれた時代に生まれたからなのか、「少女期」特有のブレやすさからなのか、あるいはわたし個人の特質に原因があるのかは、今のところわかっていない。
ただ、そのぼんやりとしただけの何かに強烈に惹かれはじめ、それが自分にとってどんな意味をもつのか、言葉に置き換え、人に伝えることはできるのか、そんなことが無性に気になり始めた頃、同時に起こっていたことがある。

自分の生まれた年を尋ねられて「平成二年です」と答える、この儀式的なやりとりが、流行りのアイドルグループの名前を口にさせられている時のような、むず痒い恥ずかしさなしには出来なくなってしまったのだ。例によって昭和生まれの人たちは、「平成二年」という言葉を耳にした瞬間「平成かあ」「二年かあ」と反射板のように感嘆符を連発し、その間わたしの顔に「平成二年」を照合させようと一度は努力するのだけれど、取り入って続く言葉も見つけられず、笑顔を張り付けたままそこに立っている。残されるのはいつも、「平成」というプラカードを持った行列の二番目からあやまって先頭に押し出されてしまったときのような、間の悪さ。とはいえ列からはみ出ていても、列に並んだままでも、「平成」というプラカードが視界にちらつく限り、わたしはわたしの滑稽さを逃れられない。「好きで並んでいたわけじゃない!」と、昭和のタスキ掛けの中に潜り込んでしまいたくもなる。

特に何も考えず、ただヘイセイの中にいた頃、わたしは得意げに「平成二年生まれ」を口にしていた。親から買ってもらった真新しい靴を見せびらかすのと似て。そこに「ショウワの靴なんて、古くさいね!」という気持ちが混ざっていなかったと言えば、嘘になるだろう。しかしそれがコッパズカシサへと変わった時、わたしのエゴはひそかに触手をのばし始め、まるで他人を相手にするように、ぼんやりとヘイセイに馴染んでいた頃のわたしを辿り、なぞり、何もないところを想像で埋めて、目まぐるしく書き変えていた。(もともと書かれてはいなかったものを、書き変えるというのはおかしい。でも確かに、書かれてはいなくてもそれはそこに何か別のかたちであったのだ
平成への態度と相反するように、平成以前への憧れは強まっていく。それは、元号によって区切られた具体的な時代のことではなかった。昭和を生きた人たちが「あの頃はよかった」と述懐する、「あの頃」とも違っていた。どう足掻いてもたどり着けない、断絶の向こう側。色調の違う同じ絵。線はなぞれるのに、身を落とし込むことが不可能な空間。そのくせ、割り切って諦めることも許してくれない、わたしがありえたかもしれない場所。憧れの対象が昭和時代でもなく、昭和時代を生きた人々の記憶でもないとすれば、それはきっと自分自身の中にあるはずだった。

たとえばそれが「昭和」というかたちをとって、わたしを見つめ返す。「昭和」に猛烈に嫉妬しながら、同時にわたしはその昭和の場所に立ってもいて、だからこそ「平成二年」のわたしに同じくらい焦がれている。「平成二年生まれ」の〈今・ここ〉で文を書いている私に、ではない。平成に何の気もなく生れ落ちたばかりの、まだ「平成」も、「昭和」も、おとなたちだけが必要とする暗号でしかなく、江戸に生まれていようが縄文に生まれていようがお構いなしに、ひたすら熱の集まる場所へと中ることが世界のすべてだったわたしに、あこがれている。彼女はヘイセイの中で、平成以前を生きていた。それはたぶん、彼女を取り巻く人たち、まだ「平成」という言葉に馴染みきれず、昭和とバブルのさりげない延命を信じていたショウワな大人たちによって守られた、「ヘイセイ生まれの子ども」のための世界だった。